<実験>自分人生の作り方

毎朝得たい感情、未来を描くと人生どう変わるのか。(現実は色眼鏡)

唯一無二であることが自分を幸せにし、豊かにする。

 
 
マズローの五段階欲求にあるように、高次の欲求とは、尊厳欲求自己実現欲求、自己超越。
これらを満たせるような人間になる時、低次の欲求である、社会的欲求、安全欲求、生理的欲求が満たされる。
したがって、唯一無二の仕事をすることは、あなたを幸せに、豊かにする。
 
 
唯一無二の仕事をする。
あなたでなくてもできることは今後ほとんどがマシーンによって取って代わられる。
どんどん自分であることが生き残る術になっていくこの時代。
 
そして、知られないことには、
唯一無二である意味がない。
幸運にも、知られることが容易なこの時代。
 
さあ、あなたはどんな人?
 

立派な目標、立派な夢、立派な。。。を、求めていませんか?

”立派な”という言葉は、他人からの、世間からの評価による言葉である。
すなわち、”立派な”を目指すことは、他人を意識して生きているということ。
 
立ち止まって考えて欲しい。
どうして、”立派な”を目指しているのか?
そもそも、その”立派な”とは、誰にとって立派なのか。
 
立派になってどうするのか?
立派で得られることと、犠牲にすることを天秤にかけてもまだその立派が必要か。
 
人類は未だ生まれてきた意味もわからない。
目指すものだって自由だ。
本当は自由な存在だ。
宇宙の粒子に過ぎない。
 
ならば、立派であることが、どれだけ〇〇であるかは、お気づきだろう。

もしかして、”ちゃんとする”って言ってませんか?

何も日本文化が、悪いということが言いたいのではなく。
日本文化によて苦しめられる必要はないんじゃない?ということを言いたい。
 
日本では、よく”ちゃんと”が使われる。
ちゃんとした、適切なあり方、やり方が既に存在することを前提としている。
つまり、決められた、正しいらしきものにみんな従い、目指さなければならないような空気だ。
日本には”正しい””ちゃんと"があらかじめ用意されている。
 
この、”ちゃんと"にハマル人もいればそうでない人ももちろんいる。
そうでない人が、その”ちゃんと”に従う理由はない。その”ちゃんと”に苦しめられる必要はない。
 
日本に暮らして、苦しむ人の大半はこれでないかと思う。
“ちゃんと"が決められているから、
それに合わない自分は、おかしな奴、ダメな奴、できない奴として評価され、非難されてしまう。
 
 
しかし、何も正しいことは存在しないのだ。
日本にその空気があるだけで、正しいを求めることは、終わりがなく、また、正解もなく、また、自分を否定することだ。
 
日本に生まれたからといって、必ずその文化のいいなりになる必要はない。
 
素晴らしいところは尊重し、自分を苦しめるものに対しては、振り回される必要はない。
そんなことで人間的成長ができない?また、文化によって、自分を苦しめてやしないか?
何も自分が苦痛を感じることだけが、成長につながるのではない。
そもそも、成長の目指す先が、”ちゃんと"したものならなおさら、その考えは採用しないほうがいい。
 
いいものの組み合わせ、まさかの組み合わせで、創造は、なされ、進化していく。
文化に飲み込まれるのではなく、選択、組み合わせていく側へ。
 
 
私が書くこの記事だって、唯一の正しいではない。
採用するかしないかはあなた次第。

変わらなくても人生は変えられる。

現実は色眼鏡。それを利用しない手はない。
 
 
真実を見ろというが、真実なんていまだかつて誰も見たことはない。
追い求めるのは誰か、学者にでも任せて、自分は自分の好きなように世界を眺めればいい。
 
自分にとっての現実は、自分の色眼鏡によってしか映し出されないのだから。
 
自分がダメダメだと思えばそうなるし、
自分は最高だと思えばそうなる。
 
 
まず、自分がダメか最高かなんて気にすることが馬鹿馬鹿しいが。。。
気にしないでいることができたら楽だ
けどできないんだ!と私も昔、悩んだひとりだった。
 
 
だけど恐れることはない。
このネガティブ大王の私が、今まさに、自分の色眼鏡を活用し、あらゆる悩みから解放され、できないと決めつけていたこともできたのだから。
 
捉え方を変えるのに、自分の色眼鏡を変えるのに、
自分を変える必要はない。
 
自分に投げかける質問を変えればいい。
それだけだ。
 
自分を変えようとするから苦しい。自分に不足があったり、自分が他と違うから自分を変えようとすることこそが、自分を苦しめている要因だ。
 
 
自分はダメか最高か自分に問う必要などない。
 
その問いは間違っている。何も生み出さない。
 
自分が信じれるか信じれないか?そんな問いも意味がない。
 
そうじゃなくて、どうやったらできるか?どんな方法があるか?
そして、これだけは、言えることがある。方法は必ずある。
 
無意識に、そうした間違った質問を繰り返し自分に投げかけているから、苦しくなる。
 
悩んだり、答えが見つからなかったり、苦しむときは、
自分の問いを疑い、見直すことだ。
 
意識的に、自分への正しい問いを心がける。
そうすれば、見える世界も変わってくる。
本来できるが、できないと思い込んでいたこともできるようになる。
自分が実はしたかったこと、
欲しかった人生、
毎日を身近に感じられるようになり、
責めなくなり、実現できる。
 
 
なぜなら、方法は必ずあり、質問を変えれば、捉え方が変わり、得る情報、行動全てが、違ってくるから。
 
 
間違っても自分を変えたりなんてしようと思わないこと。
変える=自分を認めない
これは辛すぎる。
 
自分を発掘するような感覚で、正しい問いによって自分を導いてやる。
 
それが、あなたが見ている現実を、人生を変える方法。

お金がかかるという前提だから、お金がかかる情報しか得られない

捉えた通りの現実しか得られない。
勝手に、前提としていること縛られて、
本来もっと楽にできたり、逆に〇〇できたり、という本来得られることを逃し続けることになる。
 
例えば、家を得るということに関して、
家は買うものだという前提なら、
買う手段しか探さない。
その中で、安い、高いの話をするのであって、決して、0円で買おうという発想にはならない。
 
家を得る手段は、実はいくらでもある。
例えば作る。
0円で貰う。
有償でもらう。
これらはすべて、実際にあることで、買うという前提だから、お金を払う手段に縛られている。
 
また、
働くということに関しても、生きていくということに関してもそう。
 
働く=汗水流して、あくせく9時から20時まで残業当たり前
と思えば、そういうシゴトしか見つけられないだろうし、
 
あえて、それを選択していると言っても過言ではない。
 
実は見渡せばわかるのだが、そんな働き方をしなくったって、十分稼げるし、むしろ生きやすかったりする。
働きたくないなら、働かずに済む方法を考えるだけ。
どこかで、働かないという事を否定していたり、無意識のうちに選択肢として持たないから、働かなければならない未来しかない。
 
当たり前は、一歩引けば、当たり前でもなんでもない。
 
常識的なこと、現実的なこと、当たり前な事すべては真実でもなんでもない。
 
捉え方によっては、得られる情報も、得の仕方も、お金の得方も、がらりと違ってくる。
 
じゃあ、どう捉える?

案外生きていける。

収入が下がれば生活の質が下がるのだろうか?
いや、そんなことはない。
例えば、住む場所を変える。これだけで、質をむしろあげることだって可能だ。
 
就職できなかったからって、気にやむ必要はない。
一人で食っていけることはできるのだから。
案外食っていくだけなら、かなりのんびりした生活を送れる。
それもいいかもしれない。
今や、0円の家なんてゴロゴロある。
大都会で毎日通勤するより、植物を育てて、のんびり暮らす、なんてのもいいかもしれない。
いくらでも生きていけるわけで、いくらでも方法はあって、
必ずしも、定年後に稼いではいけないわけではなく、必ずしも、病院に行って治療してもらわなければならないわけでもなく、
必ずしも、日本で稼いで日本で食わなければならないのでもなく、
必ずしも、退職金を必要とするような拠点で生活する必要もなく、
そもそも、人生には、何も求められていない。何でもいい。
 
生きていけるんだと思えれば、
あとは、何にもとらわれない、あなたの欲しい毎日を描くこと
決して、世間に毒された、よい人生を基準にするのではなく。
 
 

生きにくさの理由

生きにくいのは、雇ってもらうことが前提だから。
雇われるということは、雇い主の望む型に自分を無理やり押し込むということ。
 
自分が雇われている状態が心地いいのかどうかも、考えないで、
雇われる以外の選択肢を自分に与えないから苦しい。
 
これしかない、と一つに依存する時、人は苦しい。
どうにだってできると、思えると、人は楽になり、また、ワクワクする。
 
一度、雇われることから離れて、
お金から離れてみるのもいい、
どうやって生きていけるか、どんな生き方があるか!
 
一つに、コンテンツを売るという生き方がある
 
雇われなくても生きていけることを実感して、
なんとでも稼いで生きていける
自分のアイデアを形にしていく
 
 
生き方なんて五万とある。
どうして、雇われることにこだわってる?