立派な目標、立派な夢、立派な。。。を、求めていませんか?
”立派な”という言葉は、他人からの、世間からの評価による言葉である。
すなわち、”立派な”を目指すことは、他人を意識して生きているということ。
立ち止まって考えて欲しい。
どうして、”立派な”を目指しているのか?
そもそも、その”立派な”とは、誰にとって立派なのか。
立派になってどうするのか?
立派で得られることと、犠牲にすることを天秤にかけてもまだその立派が必要か。
人類は未だ生まれてきた意味もわからない。
目指すものだって自由だ。
本当は自由な存在だ。
宇宙の粒子に過ぎない。
ならば、立派であることが、どれだけ〇〇であるかは、お気づきだろう。
もしかして、”ちゃんとする”って言ってませんか?
何も日本文化が、悪いということが言いたいのではなく。
日本文化によて苦しめられる必要はないんじゃない?ということを言いたい。
日本では、よく”ちゃんと”が使われる。
ちゃんとした、適切なあり方、やり方が既に存在することを前提としている。
つまり、決められた、正しいらしきものにみんな従い、目指さなければならないような空気だ。
日本には”正しい”、”ちゃんと"があらかじめ用意されている。
この、”ちゃんと"にハマル人もいればそうでない人ももちろんいる。
そうでない人が、その”ちゃんと”に従う理由はない。その”ちゃんと”に苦しめられる必要はない。
日本に暮らして、苦しむ人の大半はこれでないかと思う。
“ちゃんと"が決められているから、
それに合わない自分は、おかしな奴、ダメな奴、できない奴として評価され、非難されてしまう。
しかし、何も正しいことは存在しないのだ。
日本にその空気があるだけで、正しいを求めることは、終わりがなく、また、正解もなく、また、自分を否定することだ。
日本に生まれたからといって、必ずその文化のいいなりになる必要はない。
素晴らしいところは尊重し、自分を苦しめるものに対しては、振り回される必要はない。
そんなことで人間的成長ができない?また、文化によって、自分を苦しめてやしないか?
何も自分が苦痛を感じることだけが、成長につながるのではない。
そもそも、成長の目指す先が、”ちゃんと"したものならなおさら、その考えは採用しないほうがいい。
いいものの組み合わせ、まさかの組み合わせで、創造は、なされ、進化していく。
文化に飲み込まれるのではなく、選択、組み合わせていく側へ。
私が書くこの記事だって、唯一の正しいではない。
採用するかしないかはあなた次第。
変わらなくても人生は変えられる。
現実は色眼鏡。それを利用しない手はない。
真実を見ろというが、真実なんていまだかつて誰も見たことはない。
追い求めるのは誰か、学者にでも任せて、自分は自分の好きなように世界を眺めればいい。
自分にとっての現実は、自分の色眼鏡によってしか映し出されないのだから。
自分がダメダメだと思えばそうなるし、
自分は最高だと思えばそうなる。
まず、自分がダメか最高かなんて気にすることが馬鹿馬鹿しいが。。。
気にしないでいることができたら楽だ
けどできないんだ!と私も昔、悩んだひとりだった。
だけど恐れることはない。
このネガティブ大王の私が、今まさに、自分の色眼鏡を活用し、あらゆる悩みから解放され、できないと決めつけていたこともできたのだから。
捉え方を変えるのに、自分の色眼鏡を変えるのに、
自分を変える必要はない。
自分に投げかける質問を変えればいい。
それだけだ。
自分を変えようとするから苦しい。自分に不足があったり、自分が他と違うから自分を変えようとすることこそが、自分を苦しめている要因だ。
自分はダメか最高か自分に問う必要などない。
その問いは間違っている。何も生み出さない。
自分が信じれるか信じれないか?そんな問いも意味がない。
そうじゃなくて、どうやったらできるか?どんな方法があるか?
そして、これだけは、言えることがある。方法は必ずある。
無意識に、そうした間違った質問を繰り返し自分に投げかけているから、苦しくなる。
悩んだり、答えが見つからなかったり、苦しむときは、
自分の問いを疑い、見直すことだ。
意識的に、自分への正しい問いを心がける。
そうすれば、見える世界も変わってくる。
本来できるが、できないと思い込んでいたこともできるようになる。
自分が実はしたかったこと、
欲しかった人生、
毎日を身近に感じられるようになり、
責めなくなり、実現できる。
なぜなら、方法は必ずあり、質問を変えれば、捉え方が変わり、得る情報、行動全てが、違ってくるから。
間違っても自分を変えたりなんてしようと思わないこと。
変える=自分を認めない
これは辛すぎる。
自分を発掘するような感覚で、正しい問いによって自分を導いてやる。
それが、あなたが見ている現実を、人生を変える方法。
お金がかかるという前提だから、お金がかかる情報しか得られない
捉えた通りの現実しか得られない。
勝手に、前提としていること縛られて、
本来もっと楽にできたり、逆に〇〇できたり、という本来得られることを逃し続けることになる。
例えば、家を得るということに関して、
家は買うものだという前提なら、
買う手段しか探さない。
その中で、安い、高いの話をするのであって、決して、0円で買おうという発想にはならない。
家を得る手段は、実はいくらでもある。
例えば作る。
0円で貰う。
有償でもらう。
これらはすべて、実際にあることで、買うという前提だから、お金を払う手段に縛られている。
また、
働くということに関しても、生きていくということに関してもそう。
働く=汗水流して、あくせく9時から20時まで残業当たり前
と思えば、そういうシゴトしか見つけられないだろうし、
あえて、それを選択していると言っても過言ではない。
実は見渡せばわかるのだが、そんな働き方をしなくったって、十分稼げるし、むしろ生きやすかったりする。
働きたくないなら、働かずに済む方法を考えるだけ。
どこかで、働かないという事を否定していたり、無意識のうちに選択肢として持たないから、働かなければならない未来しかない。
当たり前は、一歩引けば、当たり前でもなんでもない。
常識的なこと、現実的なこと、当たり前な事すべては真実でもなんでもない。
捉え方によっては、得られる情報も、得の仕方も、お金の得方も、がらりと違ってくる。
じゃあ、どう捉える?
案外生きていける。
収入が下がれば生活の質が下がるのだろうか?
いや、そんなことはない。
例えば、住む場所を変える。これだけで、質をむしろあげることだって可能だ。
就職できなかったからって、気にやむ必要はない。
一人で食っていけることはできるのだから。
案外食っていくだけなら、かなりのんびりした生活を送れる。
それもいいかもしれない。
今や、0円の家なんてゴロゴロある。
大都会で毎日通勤するより、植物を育てて、のんびり暮らす、なんてのもいいかもしれない。
いくらでも生きていけるわけで、いくらでも方法はあって、
必ずしも、定年後に稼いではいけないわけではなく、必ずしも、病院に行って治療してもらわなければならないわけでもなく、
必ずしも、日本で稼いで日本で食わなければならないのでもなく、
必ずしも、退職金を必要とするような拠点で生活する必要もなく、
そもそも、人生には、何も求められていない。何でもいい。
生きていけるんだと思えれば、
あとは、何にもとらわれない、あなたの欲しい毎日を描くこと
決して、世間に毒された、よい人生を基準にするのではなく。
生きにくさの理由
生きにくいのは、雇ってもらうことが前提だから。
雇われるということは、雇い主の望む型に自分を無理やり押し込むということ。
自分が雇われている状態が心地いいのかどうかも、考えないで、
雇われる以外の選択肢を自分に与えないから苦しい。
これしかない、と一つに依存する時、人は苦しい。
どうにだってできると、思えると、人は楽になり、また、ワクワクする。
一度、雇われることから離れて、
お金から離れてみるのもいい、
どうやって生きていけるか、どんな生き方があるか!
一つに、コンテンツを売るという生き方がある
雇われなくても生きていけることを実感して、
なんとでも稼いで生きていける
自分のアイデアを形にしていく
生き方なんて五万とある。
どうして、雇われることにこだわってる?